2016年3月11日金曜日

釜ヶ崎の孤独死と、瞑想

明日はいよいよ、「死と瞑想」シンポジウムです。

どうしてこんなにも釜ヶ崎の死と瞑想にこだわってしまうのかというと
2011年にこちらに引っ越してきてから、
毎年、孤独死の現場に立ち会ってきたからということが
大きな理由なのかもしれない。
直接現場にはいかなくても、
身の回りの知り合いが部屋で一人で亡くなっていたり、
病院で亡くなっても引き取る親族がなく、
友人知人でお葬式をあげることが多かった。

今日、瞑想のあとに「意識的に死に入るために」という章を輪読していて

「死ぬことに細かく、ぐちゃぐちゃこだわってもしょうがない、もっと生きてることを扱わないと」

って言われて、確かにその通りなんだけど、でもここで生きていくためには、
死ぬこと、孤独であること、何かに依存して生きること、に
向き合わざるを得なかったんだ、と気付きました。

路木の住人の方が言ってくれたのだけれど、「わたしらにとっては、死は日常茶飯事で、この近隣ではおそらく毎日2、3人はひとりで部屋で死んでる。ごく身近なことなんです」。

日常茶飯事だけど、知ってる人がいなくなるとはやっぱり大事だから、それがどういうことなのか、扱わざるを得なかった、というのが今の状況なんだろうと思います。

今日は、祐三子さんといっしょに瞑想会を初めてから、三年で初めてダイナミック瞑想ができました!

ずっと飛び続けたり、感情を激しく吐き出すステージがあるので、高齢者が多い会では難しいかも、とずっとやらずにいたのですが、今日は祐三子さんがやってみよう、と提案されて、初めてやってみました。

参加者が多くて、ダイナミック瞑想経験者も何人かいたことにも助けられ、多くの参加者が「すっきりした、よかった」といってくださいました。

いきてたらいろいろあるけど、こんな風に時々、だれということもなく外に向かって吐き出すのは、自分に目を向けるきっかけになるのではないかな。

(記録:こてがわ)

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